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FUTABA+のあかさたな

FUTABA+京都マルイ店の本と雑貨とそれ以外

1月17日 断片の人々 

断片


昨日は自宅で数年ぶりにホウ・シャオシェン『珈琲時光』を。
はじめて観てから10年、数年に一度必ず観返したくなる映画のひとつ。
2000年代はじめの東京にまだ残る古い街並と路地、喫茶と古書街と電車、電車、電車。
じっくり時間をかけて映し出された街の姿は、
わずか10年余りしか経ていない2016年現在においてすら、
すでに懐かしいタイムカプセルのようで、その感覚はおそらくこれから映画と自分が
ただ続いていく時間に浴されるだけのことで強烈さを増していくのだろう。
そして、その時その場にたまたま居合わせた膨大な「通りすがりの人々」、
役柄を与えらえていない、名前すらわからない街行く人々の姿、
その表情や身体の動きのなかに表れる、生身の人生の時間の手触りは、
物語の意味や文脈から離れて(いるからこそ)、相変わらず印象深く忘がたい。

たとえば思い出すのは、リチャード・ブローティガン『愛のゆくえ』(早川書房)p.166、
本筋とは全く関係なく登場しては去っていくこんな男。

「その列には競馬新聞を小脇にかかえた男がいた。
襟にも、コートの肩にも、競馬新聞にもふけがかっていた。」


あるいは、二度と出会わない、出会っても同定すらできない、
何ということはないが忘れられない、実際の「通りすがりの人々」の断片。

冬の朝の駅、向かいのホームで小さな息子の顔に見つけたのであろう汚れを、
思わず自らの袖でごしごし拭き取る母親の仕草とその母親にされるがままに
顔を預ける息子の自然な様子がまるで動物の親子のように見えたこと、
毎日渡って帰る橋の上、前を歩く男と向かいから歩いてくる男が
距離が縮まるごとに体を近づけ、すれ違いざま、互いに無言のまま
それほど高くない位置でパチン!とハイタッチを交わしてふたたび互いに無言で離れていったこと、
夕方からの仕事をしていた時、最寄りの駅で降り住宅街を抜けて職場に向かう道中で毎日
同じ夕刊配達の男がバイクを停めて軒先の犬を撫で回しているところに遭遇していたこと。

あまりにも断片的で、そうであるからこそ忘がたい人々についての記録と記憶。

(Y)

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