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FUTABA+のあかさたな

FUTABA+京都マルイ店の本と雑貨とそれ以外

2月21日 歴史のない土地はないように 

ランドスケールブック


数年前よく通っていた喫茶店で店主の女性に夏みかんをもらったことがある。

その夏みかんは、女性店主の息子さんが幼稚園児のときにタンブラーに種を蒔いて、その13年後にはじめて実をつけて、今その息子さんはもう34歳なので、植えてからは三十年、実がなり出してからは二十年近くになる、ということを彼女は話してくれた。
その日の夜、自宅に持ち帰った夏みかんを剥きながら、ふと、この夏みかんはいま自分の身の回りにあるもののなかで、出処がはっきりしている唯一のものかもしれないという考えがよぎって驚いた。

たとえばスーパーで買う果物にだって出処はもちろんあるわけだけれど、その果物がスーパーの棚に並ぶまでにたっぷり含んできたはずの時間に触れることはなかなかできない。触った瞬間に果物のこれまでの来歴や過ぎ越してきた記憶がこちらにテレパシーのように伝わればいいけれどそうはいかない。だからスーパーで手にする果物の時間に触れようとするなら、いつも想像力を働かせるしかない。ということにその時はじめてリアルな実感を持って思い至ったような気がする。

誰かにその来歴の逸話とともに手渡されたモノはここに至るまでの時間をたっぷり含んでいる。それが知り合いからならなおさらで、目の前にあるまるで変わったところのない普通の夏みかんから、いまはもう34歳になる中年に差し掛かった男性がまだ幼稚園児だった頃のことまでを想起させられると、「いただきます」の何気ない一言にも思わず力がこもってしまう。その言葉の本当に意味するところが分かるような気がする。
あらゆるものにはここに至るまでの来歴と含んできた長大な時間がある、という当たり前のことは、当たり前のことゆえにどこかで意識から抜け落ちていて、それを知らされるといつも目が覚めるような気分になってしまう。

ということを思わず考えていたのは、精読や通読はいつまで経ってもしないけれど何気なくパラパラと捲っては開いたページに目を落とし、その一項目を読むだけで嬉しい驚きと発見をもたらしてくれる『ランドスケールブック―地上へのまなざし』(石川初・LIXIL出版)の第3章「時間のスケール」の[地図の時間]と題されたこんな文章を読んだからだった。

私たちは、どこかの場所に「いきなり」出現することはできない。ある地点に居ることは、そこに至るまでの経路の体験が必ず前提になっている。経路は概念上の線ではなく、移動経験の形である。ある地点で眺める風景には、そこに到達するまでの記憶の一部が含まれている。地図の「途中」からいきなり地上のシークエンスが始まるストリートビューの奇妙さは、この時間経験が欠落しているためだろう。


どこかに居ることは、そこまで移動した結果である。移動することは時間をかけることだ。という当たり前の事実。



たとえば本を読むことに理由などいちいち付けないし付ける必要もないけれど、本を読むことのなかには、きっとその「経路の体験」が含まれているのだろうと連想する。
誰かの記憶と来歴に耳を澄ますこと。その声を聴きながらともに移動するということ。

読むことが記憶を呼び覚まし、呼び覚まされた記憶によってふたたび読むことへ誘われたような気がした先週のこと。


(Y)

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