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FUTABA+のあかさたな

FUTABA+京都マルイ店の本と雑貨とそれ以外

1月18日  『自由が丘で』と『時間』 

時間

「何て本を読んでるの?」
「『時間』という本です」
「何の話なの?」
「……時間の話です」

劇中でそんな会話が交わされる韓国のホン・サンスの新作『自由が丘で』を京都シネマで観た。
思いを寄せる韓国人女性を追って、迷路のように入り組んだソウルの街角にあるゲストハウスへやって来る日本人男性モリを演じるのは加瀬亮。彼がほとんどいつも持ち歩いている文庫本は吉田健一の『時間』だ。

「僕たちは時間を、過去から現在、未来へと直線的に流れていくものと思い込んでいるけれど、そう思っているのは人間だけなんじゃないか。そうじゃない時間や人生もあるんじゃないか」
本の内容について尋ねられた彼がそう話すシーンがある。彼のこの言葉はそのままこの映画の構造そのもののことを指しているように思える。
というのもこの映画、手紙が読まれることによって話が進む構成なのだが、ひょんなことからその手紙の束はバラバラに散らばり、順序を失ったまま掻き集められ、手に取られた偶々の一枚目から読みはじめられることによって、時系列がランダムに組み替えられ、常に時間が行ったり来たりを繰り返し続けるのだ。
たとえば、いきなり犬を見つけたことを飼い主に感謝されるシーンがあって、そのあとに犬を見つけるシーンがくる。あるいは、すでに仲の良い友人として描かれる男がいて、かなりあとのシーンで彼との出会いが唐突に描かれたりする。というふうに。

時間が直線的に、前から後ろへと流れない映画と言えば、すぐさまクリストファー・ノーランの『メメント』なんかが思い出されるけれど、この映画は『メメント』のように、重大な謎がのちに明らかにされることを匂わせる、鑑賞者の関心や興味を持続させる要素としてその構造が採用されているわけではどうやらない。そもそもそんなに複雑でドラマチックな筋立てはこの映画には存在しない。
関心をあとに引っ張るためと言うよりは、むしろ、その時その時の現在に眼の前に流れているシーンに注意を集中させるため、時系列がバラバラであれ都度読んだ言葉からその場その場の時間が立ち上がる感覚を共有するために選び取られた構造のように思える。
そして、必ずしも全てのシーンが前後を埋めるピースになるわけでもなく、一体どことどこのあいだに入るのかが判然としない(言い換えれば、どこに入っても違和感がない)シーンや、前後はあるはずなのにその前後のピースとなるべき部分が描かれないままに現前するシーンもある。
それでも、ひとつひとつのシーンにはユーモラスな会話とスリリングな関係性、一度か二度画面に登場したきり再び姿を現すことはないけれど、(だからこそ映画の外に彼や彼女の人生の時間は確かに流れていると感じさせる)確かな存在感を持った人物たちの佇まいがあるので、ワンシーンごと、その時の現在ごとが、物語上の流れとしてではなくひとつのシーンとして心に残る。

この映画で吉田健一の『時間』がフューチャーされていると知って、映画を観る数日前から、講談社文芸文庫ではなく二年ほど前に購入した青土社の新装丁のものを読みすすめていた。
加瀬亮が衣装などとともに自前で韓国に持ち込んだ講談社文芸文庫版のものをそのまま小道具として採用した当の監督のホン・サンスは『時間』を読んでいないらしい。けれど、驚くほどに映画と本のテーマはシンクロしているように思える。劇中、「どんな時に幸福を感じる?」と問いかけられたモリが話すことは、この本のなかで吉田健一が変奏的に繰り返し述べていることと限りなく共振している。

ホン・サンスは脚本を撮影日の朝に書くらしい。あるいは、天気が変わったら予定していた撮影をどんどんと変更してしまうこともあるらしい。わたしの持っている青土社版の『時間』の解説で作家の松浦寿輝はこんなことを書いている。

吉田は最後まで筋道を考えたうえで本書を書き出したのでは恐らくなく、連載中毎回ほとんど即興的に、頭に浮かぶままの言葉を綴っていったのだろう。良く言えば自在な即興によって、悪く言えば行き当たりばったりの運任せで進んでゆくこの文章の運動にはしかし、美しいとしか形容できない至高の自由が漲っている。


まるでホン・サンスとこの映画を評して書かれたような言葉!


映画と評論が奇妙に美しく響きあう『自由が丘で』、オススメです。


(Y)

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