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6月13日 また風景に出会うために 

kasuka


テレビがない生活を送ってもうしばらく経つので最近の放送を観ることはかなわない「ブラタモリ」は今ならきっと最も楽しめるテレビ番組のはずで、そこで明かされるひとつの街、ひとつの風景のなかに複雑に交わるさまざまな堆積した時間の存在は、普段のぼんやりした散歩やあるいは急いで最寄の駅に向かう出勤前のせわしなさのなかでは気づかれないまま放っておかれているものが、わたしが毎日を過ごすこの街やいつもの風景のなかにもたっぷり眠っていることを想起させてくれる。あるいは、眠っているのは風景のほうではなく、わたしの風景に対する感受性のほうだということをさえ。

たとえば米田知子の写真を見るとき、そこに添えられた言葉を読むとき、あらゆる風景に「何気ない」ものなどほんとうはひとつもないことを思い知らされるのと同じように、日常のなかで通り過ぎていく風景のなかに眠っているもの/風景のなかにあって眠っているわたし、を覚醒させるためにわたしがわたしにしてやれることは、テレビがない生活の中でもきっといくらもあるはずなのだろう。
そんなことを思ったのはあたらしく届いたひときわ美しい植物図鑑の後記(のような文章)にこんな言葉が記されていたからだった。

語彙にその名のくわわってはじめての晩春の花のさかりに、名を識ることとは、つまり咲くことなのだとさとった。咲かなかったのは、だれにとってもひとしなみの無力なのではなく、ごまかしようのない私の無力だとさらにさとった。私の無力ゆえに私に閉ざされていた多量のハナミズキだったと。それからはつとめて名を識りおぼえた。識りおぼえるたびに咲きほこる世界の、からくり。それは識らなければついぞ咲きほこらない世界のからくりでもあった。――『微花 kasuka 1/春』より


「名を識ることとは、つまり咲くこと」であり、「識りおぼえるたびに咲きほこる世界」こそがいつもの「何気ない」ように見えている風景の奥にひそんだ風景のほんらいの姿なのだとしたら、その咲きほこる世界に身を置きたい。その言葉を読んでそんなことをあらためて。


あたらしい植物図鑑、季刊誌『微花 kasuka』1号、取扱いが始まっています。店頭でぜひ。


(Y)

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