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10月8日 老いについての所感あれこれ 

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「私から年齢を奪わないでください。働いて、ようやく手に入れたのですから。」

今年の夏前頃に出た雑誌『つるとはな 第2号』の表紙にはアメリカの女性詩人メイ・サートンの著書『82歳の日記』からそんな言葉が引用されている。老いや加齢が当たり前のように忌避されて、「若さ=美しさ」あるいは「美しさ=若さ」だというような価値観がやたらと強くなったのがいつの頃からなのかは知らないけれど、もしかしたらまだ若いとされている年齢に属する者からすれば(それにしても、何をもって「若い」や「もう若くない」が決定されているのだろうか・・・)、この若さこそが疎ましい、とまではいかないまでも、何かに向かってまだ可能性が開いている、開いていると周囲に思われるということがやっぱり面倒だったりする。可能性がたくさんあることは素晴らしい、と大人は無思慮に若者に言ったりするけれど、可能性がたくさんある(あるいは、あるように錯覚させられる)からこそ若者はいつの時代も苦悩する。
「若さとは老いに至るために背負う苦役である」。すこし前にツイッターで、どこかからの引用としてこんな言葉が流れてきた。これはつい最近まで本当に若者そのものだった身からはよくわかる感じがして、物事には長い時間を経てみないことには判断をつけられないことがあまりに多い。そして若者はいつだって判断を留保するということを知らない。

長く付き合いのある友人や恋人は、その出会いのはじめから自分にとって特別な存在だったわけではなくて、もしかしたらほかの誰かと友人や恋人になっていてもおかしくはないような偶然性にそのはじまりはほとんど依っていて、けれど彼や彼女が自分にとってほかの誰かで代替できない存在になるのには、そこに「ともに過ごしてきた時間」という係数がかかっているからだろう。
長く生きれば生きるほど、そういう取替えのきかない何かや何者かが自分の周りに増えていく。逆に、長く生きたからこそそれに拘る必要を感じなくなっていく、すこやかに諦めがつくことも増えていく、無理に背負っていた重しを外してもいける。んじゃないか、というようなことを思ったりもするけれど、そんなにいいことづくめではないのかもしれない。メイ・サートンの日記を読めば彼女は老いてもやっぱり自分と格闘し続け、自らに失望し情けなさを感じ感情に振り回され疲弊したりもしている。

けれど、長い時間を生きないとわからないことがどうやらある、ということを実感として捉えられるほどには少しは自分も生きたのだろう、やっぱり老いていくことがいまは楽しみで、そしてそれがやっぱりまだまだ途方もないように思える時間のなかを、それこそ長い時間をかけて過ぎ越していくことでしか達しない場所にある、ということがもどかしくも楽しみだったりするのだ。


(Y)

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